#KOTRTA タイトーの社史原稿

ごきげんよう紫乃です。

 

Kusoge Of The RTAというイベントで、「たけしの挑戦状 3万回パンチRTA」の賑やかしを担当させていただきました。

やっていたことはただのフリートークだったのですが、タイトーの社史の部分はゆっくり見たい人がいるかもしれないので、掲載しておきます。

 

 

黎明期のタイトー

 現在はアミューズメント施設の運営やゲームソフト制作などで知られる株式会社タイトーは、今から70年近く前の1953年、「太東貿易株式会社」として誕生しました。この会社を作ったのは、実は日本人ではなく、ユダヤウクライナ人のミハイル・コーガンでした。ちなみに、「太東」は「極東のユダヤ人」という意味があるそうですよ。

 当時の太東貿易株式会社は、その名前のとおりジュークボックスなどの輸入雑貨類の販売を手掛けており、実は、日本国内で初めてウォッカの製造・販売を行ったことでも知られています。このウォッカ、商品名は「トロイカ」と言って、当時は帝国ホテルのバーにも置かれるほどの高級品でした。


 ウォッカを通してバーとつながりができたこともあり、酒の販売と並行して、ピーナッツベンダーの販売も手掛けるようになりました。

 ピーナッツベンダーとは、バーや喫茶店などに置かれているピーナッツの卓上販売機で、10円玉硬貨を入れるとピーナッツが出てくる仕組みです。「ガチャガチャ」や「ガチャポン」などの愛称で知られるカプセルトイのピーナッツ版と考えてもらえればいいかと思います。

 ちなみに、このピーナッツベンダーはヒット商品となり、第二・第三の人気ベンダーを生み出そうと次に出したのが「香水ベンダー」だったそうですが、当時の日本では香水にあまりなじみがなかったこともあり、それほど人気にはならなかったそうです。

 


 太東貿易株式会社がアミューズメント事業に本格的に進出したのは、設立から1年後の1954年。ジュークボックスの賃貸業を開始したのが始まりでした。

 ジュークボックスとは、シングルレコードを再生する機械で、硬貨を投入すると、内蔵されているレコードの中から好きな曲を再生することができました。現代ではほとんど見ることがなくなりましたが、1950年代当時にはアメリカのカフェには必ずと言っていいほど置かれている人気が高い機械でした。というのも、当時はまだレコードやプレイヤーが高級品であり、一般庶民が買えるものではなかったのです。


 日本に導入された最初のジュークボックスは、戦後に進駐軍が持ち込んだものだとされています。1950年代に入ると、太東貿易株式会社、V&V社、レメーヤー&スチュアート社の3社が最大手としてジュークボックスの輸入を行っていました。ちなみに、レメーヤー&スチュアート社は皆さんおなじみのあのセガの前身です。現在のゲーム会社は、実はかつてジュークボックスに関わっていた会社が複数あるというわけなんですね。

 ちなみに、エンタプライズという会社もジュークボックスの輸入に関わっていたのですが、この会社は現在のコナミホールディングスの前身です。ジュークボックスは、当時のエンターテイメントの最先端だったということがご理解いただけるのではないでしょうか。

 その後、太東貿易のジュークボックスは、1960年代には電車の中にも置かれていたそうで、東武日光線ロマンスカーの中に置かれていたという記録も残っているようです。もともと揺れに弱いレコードを電車の中でかけるのはかなり難しかったようで、車などの振動を抑えるために使われる「ショックアブソーバー」という装置のようなものを内蔵し、揺れの強い車内でも使えるジュークボックスを開発しました。この技術のおかげで、ジュークボックスは船にも置けるようになったそうですよ。

 

 さて、そんな1960年代から少し遡って1956年。太東貿易株式会社が純国産ジュークボックスを開発し、販売と賃貸業務を始めます。これが、日本で最初の国産ジュークボックスです。2年後の1958年には、アメリカからフリッパーピンボールを輸入してリースを行うようになりました。

 このフリッパーピンボール、1964年の東京オリンピックにちなんで「オリンピア」という商品名で日本に流通し、1964年に太東貿易が風俗営業の許可を取得します。実は、このオリンピアこそ、日本で後に「パチスロ」と呼ばれる機械なんです。日本で最初にパチスロの営業を始めたのがタイトーだったって、皆さんご存じでしたか?

 

 時間は少し遡りまして、1960年7月。フリッパーピンボールや、輸入したガンゲームなど約40台を設置したアミューズメントパークが大阪にオープンしました。これが、タイトーのゲームセンターの第1号です。次いで、名古屋にゲーム機150台を設置した施設がオープンするなど、ゲームセンターを順次開設していきます。

 ゲームセンターは売上も良く、大衆に受け入れられていきましたが、それに伴いより質の高いゲームを作る必要が生じました。そこで、1963年、商品の企画・開発・製造を目的に、子会社のパシフィック工業株式会社を設立しました。

 このパシフィック工業株式会社が研究所の役割を果たし、1965年、太東貿易は新たなゲームの開発に成功します。それが、皆さんおなじみクレーンゲーム。「クラウン602」と名付けられたこのクレーンゲームは、マジックハンドを遠隔操作して丸いカプセルを取るもので、現在でも多くのゲームセンターに置かれているクレーンゲームの先駆けとなりました。

 

 1967年には、シューティングの「ペリースコープ」、1対1で相手のゴールにボールを入れ合う「バスケットボール」などのゲームが発売されるなど、太東貿易のアミューズメント事業の商品開発はどんどん進んでいきます。これらのゲームが人気となる後押しとなったのが、当時日本でブームが起きていたボウリングでした。

 当時のボウリング場にも、現在と同じようにアミューズメントスペースが置かれていて、プレイ待ちの客の時間つぶしができるようにゲーム機が設置されていました。ボウリング場の普及とともにアミューズメント事業は大きく成長し、太東貿易が開発したゲーム機には人だかりができるようになります。

 日本初の万国博覧会が大阪で開催された1970年には、ドライブゲームの「スーパーロード7」を発表。当時、ドライブゲームを作る会社は少なく、ドライブゲーム太東貿易の独壇場でした。ちなみに、同年にはなぜかニュージーランド産のジャムや、スウェーデンの家電メーカーが作った掃除機などの取り扱いもしていたようです。

株式会社タイトースペースインベーダーの誕生

 そして、1972年、社名をおなじみの「株式会社タイトー」に変更。翌年には千代田区に本社ビルを竣工するなど、株式会社タイトーはますます波に乗っていきます。


 テレビゲーム事業では、本社ビル竣工と同じ1973年、日本初の業務用テレビゲーム「エレポン」を発表します。

 エレポンとは、1対1でボールを打ち合うビデオゲーム「ポン」のコピーゲームです。ポンは、伝説のクソゲーこと「E.T.」を生み出したことで知られるアタリが発売した世界初のテレビゲームとしてもおなじみですね。ちなみに、エレポンが発売されたのとほとんど同時期に、セガからもポンのコピーゲームである「ポントロン」が発売されました。

 ちなみになんと、ポンというゲーム、タイトーステーション秋葉原店で遊べるほか、家庭用筐体が販売されています。お値段なんと、税込みで59万1,800円。テーブルとしても使用できる本体には、USB充電用のコネクタやBluetooth機能を搭載したスピーカーなどの機能も付いているほか、専用の椅子が2脚つきます。気になる方はぜひ「アタリテーブルポン」で検索してみてください。

(筆者注:2020年7月9日、アタリテーブルポンの値下げが発表されました。お値段税込みで29万7,000円です。お買い得ですね。)


 話はアタリ社のゲームに戻り、1976年にはアタリ社から「ブレイクアウト」が発表されます。このゲームは、いわゆるブロック崩しのこと。発売当時、業界の反応は鈍かったものの、プレイヤーからの人気は高く、あっという間に人気商品になりました。

 1977年には、タイトーもブロックくずしを発売。このゲーム機の画期的だったところは、これまで立って遊ぶのが主流だったゲームを、座って遊ぶことのできるテーブル型の筐体にしたところです。ゲームセンターだけでなく喫茶店にも設置され、一時期100円玉が日本国内で足りなくなるほどの大ブームを巻き起こしました。

 この「ゲーム機の筐体をテーブルとしても使えるようにする」というアイデアは、太東貿易時代のウォッカの製造・販売からはじまり、ピーナッツベンダーやジュークボックスなどで得た飲食店とのつながりから生まれたものでした。喫茶店やバーとのつながりが深かったタイトーならではと言えるでしょう。

 

 その翌年の1978年、後に世界中で爆発的な人気を誇るゲームが発表されます。そう、「スペースインベーダー」です。

 当時、スペースインベーダーブルーシャークというゲームと同時に発表されましたが、発表会に集まった人の目を引いたのはブルーシャークで、スペースインベーダーはそれほど評価が高くありませんでした。当時の人々にとっては、スペースインベーダーはあまりにも斬新すぎたのです。

 スペースインベーダーが斬新だったのは、自分と敵の双方向が攻撃し合うという点です。これまでのゲームは、自分が一方的に相手を撃つものや、相手の攻撃を避け続けるものがほとんどでした。加えて、宇宙からの侵略者というスペースインベーダーのテーマがあまりにも抽象的すぎると評価されたのです。

 しかし、そのような業界人の評価に反して、スペースインベーダーの人気は徐々に高まり、これまでゲームに興味がなかった人も巻き込んでいきます。遂にはアメリカにも輸出され、世界のゲーム市場に旋風を巻き起こしました。当時は1台のインカムが1日2万円、月60万円とも言われていたそうです。

 急拡大した需要に対応しようと、タイトースペースインベーダーの生産以外の全ての業務を中止しスペースインベーダーに注力し、他社に生産ライセンスを与えますが、それでも需要に追い付かないほどでした。


 スペースインベーダーがここまで人気を博したのは、プレイスキルが求められるからだと言われています。敵の攻撃を避けながらの攻撃は難易度が高く、気を抜くとすぐにゲームオーバーになってしまうため、上達するまでは100円を投入し続ける必要がありました。このスリルがプレイヤーを魅了していたのです。

 さらに、得点を競えるというシステムも、プレイヤーの熱狂に拍車を掛けました。上達したプレイヤーは、さらに高い得点を求めて研究を重ね、製作者ですら気付いていなかったゲームの特徴を発見するに至りました。

 

 1978年に始まったスペースインベーダーブームは、1979年には急速にしぼんでいきます。しかし、入れ替わりが激しいゲーム業界で、同じゲームが1年間も爆発的なヒットを持続させたことは、驚くべきことでした。

 スペースインベーダーの人気はすさまじく、タイトー株式会社を一気に人気企業の座へと押し上げました。営業拠点を増やすべく、主要都市で自社ビル建設に着手するほか、生産拠点となる工場を神奈川県海老名市に設置するなど、会社の規模がどんどん大きくなっていきます。
 1983年には、これまでのゲーム機開発で得た技術を生かして、セールスプロモーション用ロボットを開発。1985年には業務用映像カラオケ機器の取扱を開始するなど、アミューズメント事業の幅も広がりました。


 カラオケの取り扱い開始と同じ1985年、タイトーは遂に家庭用ゲームソフトにも進出します。最初に発売されたのは、大ヒットを記録したスペースインベーダーファミコン向けソフトとして発売されました。同年5月にはアクションゲームの「ちゃっくんぽっぷ」が発売され、主人公のちゃっくんは、その愛らしい見た目からタイトーのイメージキャラクターを務めるようになりました。

 そして翌年の1986年12月に発売されたのが、現在プレイしている「たけしの挑戦状」です。このゲームがどのような点でクソゲーなのかは、もうここまでご覧いただいている皆様には今更説明するまでもないかとは思いますが、後々ゆっくり説明させていただきます。

平成の時代とタイトー

 さて、時代は平成。1993年にタイトー東証二部上場を果たし、企業としても成長を続けていきます。ちなみにこの翌年の1994年、アーケード版にリリースされたゲームがパズルボブルです。人気を博したこのゲームは、ちゃっくんをタイトーのイメージキャラクターの座から引きずり下ろすほどの人気でした。ちなみにNintendo SwitchPS4などの最新家庭用ゲーム機向けに配信されている「アケアカNEOGEOシリーズ」で遊べますので、皆様遊んでみてはいかがでしょうか。

 1997年には、現在まで続く大ヒット作品である「電車でGO!」が発売され、アーケード・コンシューマー共にブームを巻き起こします。2000年には携帯電話コンテンツ事業に参入、2003年には東証一部上場も果たし、このまま一流企業への道を上り詰めていくものだと思われた矢先、2005年に事件は起こります。

 

 それが、スクウェア・エニックスによる株式公開買い付けです。株式公開買い付けとは、不特定多数の株主に対して「この期間中に、株をこの金額でこれだけ買います」と公表して株を買うもので、簡単に言ってしまえば企業の買収や子会社化の方法の一種です。当時のタイトーは経営難というわけでもなく、黒字成長が続いていましたが、経営陣の間で合意したため買い付けが行われました。この2005年近辺にはゲーム業界の合併が多く、バンダイナムコの合併や、タカラとトミーの合併もあり、事業規模を拡大したいとの狙いがあったのだと推測されます。

 しかし、両者の合意のうえで行われた株式公開買い付けだったにも関わらず、2006年3月には、「タイトーを別の子会社に吸収させ、その子会社にタイトーと名付ける」ことを発表。1953年に生まれ、日本のアミューズメント事業をけん引してきたタイトーは、50年以上の歴史に幕を下ろすこととなりました。

 

 そんな形で生まれた2代目のタイトーは、2008年のスペースインベーダー30周年を機に、インベーダーをブランドの主軸に据えると発表。ゲームセンターの名前も、皆さんおなじみの「タイトーステーション」に統一され、インベーダーがあしらわれたロゴが採用されました。

 スクウェア・エニックスの元で生まれた2代目タイトーは、このまま存続できるかと思いきや、一部店舗で行った「ゲームの1プレイの金額を120円に値上げし、100円玉1枚と10円玉2枚を入れるシステムにする」というテストが不評で客離れが起こるなど危機に見舞われ、再建を余儀なくされます。

 結局、またしても吸収合併が行われ、2代目タイトーは消滅。本当に複雑でいろいろあったので途中の経緯は省きますが、なんやかんやあって2010年に3代目タイトーが誕生。これが現在も続いているタイトーです。

 スクウェア・エニックスの子会社になって以来、家庭用ゲーム機向けのソフトは全てスクウェア・エニックスから出ていましたが、2018年7月、家庭用ゲーム事業へ再参入することが発表されました。今後はどのようなゲームを生み出してくれるのか、楽しみですね。

 

参考文献

www.taito.co.jp

 

https://twitter.com/TAITO

 

ja.wikipedia.org

 

togetter.com

 

togetter.com

 

www.daiwa.jp

 

ちなみに

神奈川県立川崎図書館は、武蔵溝ノ口駅から徒歩15分、バスで約5分です。気になる方はぜひ行ってみてはいかがでしょうか。