【エッセイ】タイトーの回し者ができるまで

ごきげんよう紫乃です。

パズルボブル最新作の開発が発表されてテンションが上がっちゃったので、オタクの特技である自分語りをしようと思います。

暇すぎて爆発しそうな人だけ読んでください。

 

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 幼少期の私の楽しみの1つは、東京に住む伯母との交流だった。

 伯母が住んでいたのは麻布十番。都心の一等地で飲食店を経営していた彼女は、幼稚園児の私から見ても洗練された女性で、幼心に「次はどんな服を着てくるんだろう、何を持ってきてくれるんだろう」と楽しみにしていた。2児の子育てに追われる母と比べると、独身の伯母は頭の先から爪の先まで美しく着飾っていて、私も将来あんな女性になるのだと信じて疑わなかった。

 小学生になったある日のこと、母と妹と3人で、伯母の住む東京の家に泊まりに行く機会があった。子どもたちが退屈しないようにとの配慮であろう、家に着いた私たちに伯母が用意してくれたのが、プレイステーションだった。

 

 当時の私が遊んでいたゲームといえば、スーパーファミコンとピコ――「キッズコンピュータ」の名称で売られていた幼児向けの知育玩具。ゲームと呼ぶには少し違うかもしれない――だけで、目視できるドットの2Dゲームが全てだった。そこに現れた美麗な3Dグラフィックのプレイステーションは、子どもの心を奪うのに十分すぎた。

 滞在期間中、私はのめり込むようにプレイステーションで遊んだ。あまりの熱中ぶりに伯母が本体ごと貸してくれて、家に帰ってからも遊んだくらいである。その時に借りた2本のソフトが、XIシリーズの第1作目である「XI[sái]」、そして「パズルボブル2」だった。

 

 借りてきたプレイステーションは、次に伯母が遊びに来た時に返却することとなった。その間は数カ月ほどで、それほど長い期間ではなかったと記憶している。

 所詮は小学校低学年の腕前だ。XI[sái]はTRIALをやってもすぐゲームオーバーになるし、パズルボブル2はうーるんの突破率が2割程度だった。数カ月でそうそう上手くなれるわけではない。しかし、「このゲームが楽しい」という気持ちだけは、プレイステーションを返却してからも残り続けた。

 事実、XI[sái]のことは大人になってもずっと覚えていた。社会人になって数年が経ち、「曖昧な記憶しか残っていない思い出のゲームを、わずかなヒントを手掛かりに探し出す」という趣旨の動画を見た際に、自分ならこのゲームを探してほしい、と真っ先に思いついたのがXI[sái]だった。「妖精がサイコロを転がすゲーム」と検索してXI[sái]が出てきた時の感動は、今でも忘れていない。

 

 脳裏にうっすらと残っていたXI[sái]に対して、パズルボブルは記憶に鮮明に残り続けていた。幸運にも、自宅にスーパーファミコンのカセットがあったからである。

 母親がパズルゲームにハマるという話はよく聞くが、私の母もそのケースだったのだろう。自宅には何本かパズルゲームのソフトがあり、そのうちの1つがパズルボブルだった。ゲームボーイカラーを買ってもらい、プレイステーション2を買ってもらってからも、スーパーファミコンパズルボブルを遊び続けた。

 ニンテンドーDSを購入してからは、パズルボブルDSへ移行する。スーパーファミコンで遊んでいた頃からエンドレスモードが大好きで、パズルボブルDSでも黙々とエンドレスモードをプレイしていた。釣り人が釣り糸を垂らしながら思案するように、私はバブルを消しながら思案していた。

 

 時は流れ、私は大学に進学し、パズルボブルDSを携えて都内で一人暮らしを始めた。年に2回ほど実家に帰っては、たまにスーパーファミコンパズルボブルをやる。やはり大きい画面で遊ぶパズルボブルは楽しい。

 大学に入って新しい友人も増えた。特に大きかったのは、ゲームが好きな友人ができたことだ。それまで周囲にはゲームが好きな友人があまりおらず、友人と対戦するとマリオカートテトリスも私が一番上手かった。Tスピンもろくにできず、テトリス99で一度も1位になったことがない私が、である。

 大学に入り、その状況は一変した。ゲームが好きな友人ができると、そこからまた友人の輪が広がる。新たな友人もゲームが好きなので、必然的にゲームが上手い友人が増える。目の前でボンバーマンをノーコンでクリアされた時には、目を疑った。便宜上、彼のことは以後「プロのボンバーマン」と呼ぶ。

 そんなプロのボンバーマンの前では、私はただのゲーム下手だった。スーパーマリオギャラクシー2をやっては「センスがなさすぎる」と言われ、毛糸のカービィでは足を引っ張り続けた。プロのボンバーマンには幾度となくゲームの腕前を馬鹿にされてきたが、事実なので言い返せなかった。

 

 しかし、大学4年生のある日、転機が訪れる。卒業を控え、東京の賃貸を解約して実家暮らしに戻っていた3月某日。実家に置かれていたスーパーファミコンパズルボブルを目にした時、閃光のようにある考えがよぎった。

「これなら勝てるかもしれない」

 それまで、プロのボンバーマンにゲームで勝ったことなど一度もなかった。アクションだけではない、ポケモンバトルをやってもだいたい負けていた。そんな彼にも、もしかしたらパズルボブルなら勝てるかもしれない。

 提案すると、プロのボンバーマンは「そんなはずがない」と一蹴したが、この時の私はそれでは納得しなかった。そこまで言うならば、とわざわざスーパーファミコンを携えて、プロのボンバーマンに会いに行ったのである。

 思えば、なぜあの時はパズルボブルDSではなくスーパーファミコンを持って行ったのだろう。プロのボンバーマンニンテンドーDSを持っているのだから、DSで対戦することもできたはずだ。それでもあえてあのかさばるハードを持って行ったのは、きっと長年遊んできたという愛着と自信があったからなのだろう。

 

 プロのボンバーマンは、パズルボブルを遊んだことは全くないらしい。しかし、「お前に負けるはずはない」と自信満々だ。スーパーファミコンの電源を入れ、いざ対戦が始まった。

 勝った。辛勝だったか圧勝だったかまでは覚えていない。だが、勝ったのは紛れもない事実だった。

 プロのボンバーマンは驚きを隠せない様子だったが、私も同じくらい驚いていた。それが、プロのボンバーマンにゲームで勝った最初で最後の瞬間だった。
 彼はもう、この対戦のことを覚えていないだろう。あれから長い月日が経った。お互い結婚して、向こうは一児の父になっている。しかし、彼が忘れてしまっても、私はしっかりとこの対戦のことを覚えている。

 この勝利をきっかけに、私は「パズルボブルなら他の人より強い」と信じるようになったのである。無論、当時の私は、この数年後に自分よりパズルボブルが上手い人に出会うことを知らない。

 

 時は流れ2017年。当時の私は、ゲームを遊ぶことよりも、Nintendo SwitchのゲームのRTAを見ることにハマっていた。
 もともとゲーム実況を見るのは好きだった。TAS動画や改造マリオもよく見ていた。そんな中で、何やら面白いことになっていると聞いて興味を持ったのが、ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドのRTAだ。

 当時はまだBtBが見つかる前で、主な移動方法はビタロックジャンプだった。Skewも使われていない時代だったが、わずか45分でガノンを倒す華麗なアクションに魅了され、毎日のように記録動画や配信を見ていた。

 しばらくすると、スーパーマリオオデッセイが発売される。こちらもすぐにRTAが盛り上がり、ブレワイと同時にRTA配信を追いかけはじめた。

 この頃の私にとって、RTAは「自分にできないことを提供してくれる雲の上の存在」だった。自分ではクリアすらできないゲームを、いとも簡単にクリアしていく。しかし、その裏には何百時間という練習があり、山のような回数のリセットを重ね、やっとの思いで記録が出せる。その過程に魅了されていた。もちろん、当時の私は自分がRTAをする側になるなんて微塵も思っていない。

 

 そんな中、遂に私をRTA走者にするきっかけとなるイベントとの出会いがやってくる。2018年に行われた、RTA in Japan 3だ。

 イベントを知ったきっかけは、スーパーマリオオデッセイだった。このタイトルが披露されると知り、イベントを見始めた途端、文字通り世界が広がった。

 それまでの私にとって、RTAはアクションゲームのためにあるものだった。しかし、イベントで披露されるゲームはアクションだけではない。RPGもあればレースゲームもあるし、パーティゲームもある。その中の1つがパズルゲームだった。

 パネルでポンRTAを見た時には、もちろんその華麗なテクニックにも驚いたが、「パズルゲームでもRTAができるんだ」という気付きに衝撃を受けた。RiJを見たことで世界が広がり、知っているパズルゲームのRTAを見たことで新たな道が拓いた。

 もともとパズルゲームが好きだったので、メジャーどころのパズルゲームにはほとんど手を出していた。もちろんパネルでポンもプレイ済みだ。しかし、あのスーパープレイを見てしまっては、とても同じ土俵で戦えるとは思えない。

 

 そこでふと思い出したのが、プロのボンバーマンと戦ったパズルボブルだった。ゲームが上手い人に唯一勝てたゲーム。これなら私も世界と戦えると確信した。

 タイミングも完璧だった。RiJ3の翌月に行われたAGDQ2019で、アーケード版の初代パズルボブルが披露された。当時はアーケード版の存在を知らなかったものの、やり込んでいたスーパーファミコン版はアーケード版の30ラウンドを含む全100ラウンドだったので、見覚えのある面ばかりだった。30分程度で終わるため、ボリュームも丁度良い。RTAをやるならこれだ、と思った。

 更にタイミングが良かったのは、このゲームがNintendo Swtichで販売されていたことである。狙いすましたかのように2018年12月から販売が始まっていたアケアカNEOGEO版を購入し、キャプチャーボードも購入。こうして、2019年1月、私はパズルボブル走者としての第一歩を踏み出したのだった。

 

 こうしてRTA走者としての活動を始めた私は、同年の6月にアーケード版パズルボブルで世界記録を出し、パズルボブル星人をはじめ複数の走者に記録を抜かれ、同年12月のRTA in Japan 2019で「タイトーの回し者」と呼ばれるに至る。

 私の活動を見ている人の中には「なぜここまでタイトーパズルボブルに愛を注げるのか」と疑問に思う人もいるかもしれないが、それは単に、パズルボブルという作品が私の自己同一性を構成する柱のうちの1つだからである。

 誰にでも、幼少期から遊んできたゲームがあるだろう。思春期に没頭したゲームもあるだろう。成功体験を与えてくれたゲームもあるだろう。私にとって、それらは全てパズルボブルだった。

 

 ゲームに対する思い出は人それぞれだ。私はパズルボブルに並々ならぬ思い出と思い入れがあるが、この思い出は当然私のものでしかない。私がプレイステーション版のパズルボブル2を手にした時の一種のノスタルジーは、私以外の人には伝わらない。

 しかし、パズルボブルの良さなら伝えられる。長年遊んできたゲームだ、良いところも悪いところも理解している。悪いところも全て受け止めたうえで、私はパズルボブルが好きだ。悪いところを補ってあまりある長所があるゲームだと信じているからこそ、もっと多くの人に魅力を知ってもらいたい。これが、今の私の原動力だ。

 

 タイトーの回し者と呼ばれたRTA in Japan  2019から、まもなく2年が経とうとしている。先日は遂にパズルボブルの家庭版最新作の開発が発表され、タイトーの社員の方から「RTA」という単語が出るなど、この2年でパズルボブルRTAを取り巻く環境は徐々に変わってきた。

 好きという感情に終わりはない。環境が変わっても、私はこのままタイトーの回し者であり続けるんだろうなと思うし、そうありたいと思う。